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最上 〜MOGAMI
散歩と思索と詩作 その一の巻
2008-04-10-Thu  CATEGORY: 散歩と思索と詩作
「散歩の記録とダニエル」を書くにあたって、下敷きとなったエピソードはもっと短くもっと縹渺としていた。
 まず、妻(正確には“元”妻)と娘の散歩や外出時間をめぐって喧嘩になり、それから娘のOーちゃんと一緒に自宅からすぐ先のT公園に向かった。その短い道中にある自販機でコーヒーのホット缶を買って、公園でよよと飲みつつ娘を安全な距離で遊ばしていた。
 ただし滑り台となると一人ではまだやや剣呑なので一緒になって遊ぶのだが、階段を上っているうちに消息のしれない変な事が浮かんだ、それが「滑る速度で首を括りたい」だ。
 とはいえ、「思った」とか「考えた」といったものじゃなくて、本当に「浮かんだ」というのが中(あた)らずとも遠からずだと思う。
 そもそも喧嘩の非は僕にあるわけで(僕にあるんです)、良心の呵責それからの発声と呼べるかもしれないが、たとえば自宅は2階にあるので毎日階段を上り下りしているにも関わらず、その日に限っては「13階段」(自宅の階段はもっと段がたくさんだし、滑り台は足りないと思う)とか「首を括りたい」などと浮かぶのはなにか自責の念というのに求められそうだけど、しかし「首を括りたい」のうちの《たい》は迫られた人間のそれではなくて、明らかに自由人のそれである。
 ただし、うろ覚えからの記憶違いかもしれない。
 とりあえず話を戻すと、滑り台で遊んだ後は寄り道もせずに帰宅した。だから弁財天も流山線も閑静な住宅街の生活道路も遅れて裏から継ぎ接ぎをしたのだが、動機は後に説明をするとしてこれは差し当たって「思索」の成果だろう。
 その限り「浮かんだ」とか「それ」とか……という現象は「詩作」の結果だ。
「思索」と「詩作」。これは手前味噌な表現というのではなく、確かハイデカーのニーチェ論の一説で見た覚えがある。(あんまり哲学は好きじゃありませんが……もちろん『人間は先天的に哲学者であーる』といった理屈を抜きにすればですが)
 で「思索」というのは、一般にまさに「哲学」と認知されたものの動的な表現なのであって、つまり思考しつつ行動するのである。かてて加えれば、或る対象を捉えた後に描写するという、なんとも当たり前な事なのだ。(その限りでは、やはり人間は先天的に哲学者なわけだ…うんざりするな、この感じ) 
 ところが、「詩作」を対峙させるとそんなに退屈な話題ではないと思えるようになった。
「詩作」というのは、詩人がそのように、動きながら考えるの静的な謂いなのだが、ところで「思考」というのは「行動」を顧視する「客観的」な立場であり(これは『思索』)、「詩作」にあっては「行動」が「思考」を誘導する「主観的」な立場と互いに掣肘(せいちゅう)し拮抗する。
 そして作家が「思索」や「詩作」という、さかしまに見た際には成果や現象を、道具としてその仕事や手遊びに供する時、この限りでは、「思索」は決して対象を「客観的」に捉えて漉して描写する謂いではなくて、つまり作家は(この作家というのを「詩人」としないのは、「今は」ややこしいことになるからである)「物事を考えてから行動する」思索という現象を「対象を即物的(対象物・対象人物の気持ちや立場になって)に捉え描写をする」といった道具・技術に置き換え仕事に取り掛かるのだが、まずもって対象を捉える段階にあっては主観は客観に優位であり、描写をするという行動は主観即ち「詩作的」立場は「思考」に誘導されている。
 またそうであれば、「思索」とは対象を「主観的」に捉えて「客観的」に描写をするということになるが、更に置き換えてみると、「思索」とは対象を「詩作的」な立場で捉えて「客観的」に描写をする。更には「思索」とは対象を「行動が思考を誘導する」といった風に描写をする、即ち思索とは「描写(行動)」が「対象の把捉(思考)」に先行するという性格を持った「詩作」そのもの……「詩人」にあってはそもそもが然もありなんである。
 


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