最後の傑作
そしていま、広範囲に散らばったガラクタの真ん中で、わたしたちは静かに、そして大胆に探索に出かけるのだ。
「複製技術の時代におけるアート作品」 ヴァルター・ベンヤミン著
1
三枝夫人が辻待ちのタクシーを拾ったのは、皇居をめぐる目抜き通りから少し引込んだ
所である。
歳末の夜会服の草臥れたような襞の重ねには、てんでの玻璃の照りがつがいになるとすぐに堰をつくった。
こういった不明な符牒が、今の彼女には堪えきれない。
首を振る。お堀の水はそれで墨を打ったように細く黒く、広前の縦のビル群を統べて画して
二ノ丸にしてしまうようだ。
一性歴々の天胤が為に一振りの刀を呑み込んだ人間の数は知れず、宮城の空には、英霊が今
でも一陣二陣と沖して音無しに奉公に勤しんでいる。
この山の手の切っ先の丸い風は首都高の橋桁で合流しやがて復た昇るが、彼女を救急口の車
廻しに着けたのは、そんな風である。
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三枝翁が一家を構えたのは、往時文壇のメインストリートを我が物顔で闊歩していた自然主
義への嫌気からであった。とはいえ対象が人であれ犬であれ自然であれ、そこから奔逸する
現象をママに書くのだからよっぽど自然主義に近いのだが、いざ筆を起こすとなるとなんで
あれ、殻を割りそれから漉して別の種に仕上げてまた戻すといった風なので、道程がすこし
禅的である。
また川端や谷崎といった化粧直しの文学にも興がそそられたが、指を染めるには至らなかっ
た。くるぶしとか腋下などは、文字面からして匂ってくるようで嫌であった。
そして何よりも、「本日晴朗ナレドモ波高シ」よろしく片手落ちの文学に与できなかった。
だから彼の不満の本当は「主義」とか「なにがし道」というのに掣肘されることだったのか
もしれない。
しかし派閥をサロンを愛した。
それは漱石への片恋慕という動機もあったが、米のとぎ汁のような濁りが彼の履歴に必要と
感じたからである。地平の見え過ぎるのは窮屈だ。
醇乎で澄明な精神。これが彼の一家の屋台骨であった。
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